散りぬればのちはあくたになる花を思ひ知らずも惑ふてふかな(『古今和歌集』435・僧正遍照)

散ってしまったら、その後はただごみになる花なのに、そんなことに思いもよらず惑い来る蝶であることよ。

和歌や古典文学の世界で蝶を歌った例はそう多くありません。
蝶の変態や、触ると粉が付いたりかぶれたりする奇妙な生態からか、どちらかというと気味の悪いものとして登場します。

調度品や工芸品の中にはしばしば登場するモチーフなのに、不思議ですね。
蝶が韻文の中に頻繁に登場するようになったのは家紋や文様として蝶が定着した近世以降であり、伝統的な和歌の世界観の中には積極的に蝶を主題として詠み込む習慣はありませんでした。

この歌も、蝶が主題というよりはむしろ仏教的色合いの強い歌です。
人も、元気で動けるうちが花。人間の一生もこの世の仮の宿りなのだから、無常のものに惑わされずに生きていくべきだ。
しかし、そんなことにすら捉われずに惑い来る蝶。華やかなものに目がくらみ、いずれはゴミになるという花の本質が見えていないのか。はたまたそういう境地を抜け出しているのか・・・。

ひらひらと飛ぶ蝶には、彼らが何かそうした人間的な部分を超越したところにいるのではないかと感じさせるものがあります。

蝶が幼虫が蛹となり成虫へと変態していく様は、小さな虫の一生の中に擬死廻生、輪廻転生を封じ込めたようにもみえます。
なにとはなしに、生まれてはまた死んでいく生き物のほんとうを重ね合わせてみたくもなるものです。

僧正遍照がそこまでのことを想いながらこの歌を詠んだのかどうかは判りませんが、蝶にはそうしたことを感じさせる何かがあります。

蝶や鳥のように、「空を飛ぶ」能力を持つ生き物は、異界と現世をつなぐ存在だとされました。

神武天皇を助けたのも烏や金鵄ですし、有職織物でも鸚鵡や蝶は高貴な文様。
調度品でも、几帳や壁代の布筋(のすじ)や檜扇の文様、要の金具には蝶鳥が登場します。

世界を見ても、鳥や蝶を霊魂を運ぶ存在として考える文化は複数あります。
空を飛ぶ、という能力は人間には不可能なことを行う、とてつもない能力ですので納得です。
特に蝶は、方向を定めずふわふわと飛びます。
その飛び方もまた、この世に現れる霊魂を運んでいるかのようにも見えます。

折も折、ちょうど彼岸の入りのこの季節。
真西に沈む太陽にあの世の世界に想いを馳せるこの時を知ってか知らずか、蝶はこの世の花に惑っているのですね。