なかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり(『万葉集』3086・よみ人知らず)

中途半端に人として生きているよりも、蚕にでもなってしまいたい。はかない玉の緒ほどの命でもよいから。


今回の歌は『万葉集』にある恋の歌からの引用ですが、『伊勢物語』では都人に捨てられる田舎女の歌として登場します。
この歌に一瞬心をとめた都人でしたが、結局女の田舎臭さに辟易し女を置いて都へと帰ってしまう、という筋書です。

桑は養蚕という生業・労働にかかわる植物であるだけに王朝的な勅撰集の中にはほぼほとんど登場しません。
『伊勢物語』の中での扱いも、「桑や蚕を歌にするなんて、いかにも田舎くさい!」といったところでしょうかね。
都人の感覚がよくわかる扱いです。

しかしこの歌、モチーフは素朴ではありますが案外よく考えられていたりします。

歌の中で「玉の緒」といったら「魂をつなぎとめる緒」のこと。つまり命そのもののことをさしました。
式子内親王の「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへばしのぶることの弱りもぞする」で良く知られています。

この「玉の緒」は、連想として「絶ゆ」「長らふ」「長し」「弱る」を導きます。
つまり全て「緒=糸」の状態と密接に関わる言葉たちです。
今回の「なかなかに」の歌も、モチーフは桑子(蚕)であり、「糸」と密接に結びつくものです。
蚕の命そのものも、糸をとるために儚いものであることから「蚕‐糸‐緒‐玉‐命」へと至る連想の「糸」が綺麗につながっています。
これに気が付くと、「ダサい歌」から一本取られたようななんとも痛快な感覚に。


そもそも「桑」は何につけても有用な植物として日本人の生活に欠かすことのできない植物でした。
実は食用に、木は家財や楽器に、そしてその葉は養蚕用にと、無駄になるところがありません。栄西禅師が著した『喫茶養生記』も、半分は桑茶の効能を説いたものでした。

日本の異称、「扶桑国」は中国の伝説に由来する名称ですが、実際的な側面からもその名の通り。
少なくとも近代までは養蚕は日本を豊かにしてきた産業であり「桑」はその基だったにもかかわらず、最近ではほとんど身近に見かけなくなったことが寂しいですね。

桑の実の味を懐かしく思い出す今日この頃です。