今更になに生ひいづらん竹の子のうき節しげきよとは知らずや(『古今和歌集』凡河内躬恒)

今になってどうして生まれてくるのだろうか。竹の子に節が沢山浮いているように、この世は辛いことばかりなんだと知らないのかなぁ。


竹が和歌の中に詠み込まれる時、節の浮いた樹形から「節(よ)」を「世」とかけて恋心を詠ったり、「浮き節」を「憂き節」にかけて詠み手の辛い心情を詠たりすることがありました。

今回の歌も、「うき節しげき」=「辛いことが多い」の意味で用いられています。
この歌には短い詞書がついており、「物思ひける時、いとなき子を見てよめる」とあります。
あどけない子が竹の子のようにすくすくと育つのに目を細める一方で、子の先行きをふと憂えてしまった瞬間を捉えた歌なのでしょうね。
切ない親心が詠み込まれています。


さて、竹は生活に欠かすことができない様々な道具の材料とされ、深く日本人の生活に溶け込んでいます。
それだけではなく、松や梅と並んでおめでたい樹木として並び称されることからもわかるように霊妙な力を持つ樹木だと考えられてきた側面もあります。
神事においても、斎庭を区切る樹木や神籬、神楽舞の採物など、重要な局面で様々に用いられてきました。

わずか数か月ほどで何メートルにも成長するという生命力や、幹の中に多くの空洞を持つという不思議さ、葉の擦れ合うさらさらという清らかな音から、そうしたインスピレーションを得てきたのでしょうね。

『竹取物語』で、竹の生命力や不思議さそのままに「かぐや姫」が描かれたているのも何の不思議もありません。

その生命力の塊ともいえるのが、「たけのこ」です。
この時期、地表に姿を現した竹の子はすでに渋みが出てきてしまって食用にはあまり向かないかもしれませんが、それにもめげず生え始めのたけのこを見つけようと山を歩き回ったことがあります。
結局わたしは全く見つけることができなかったのですが、竹の子掘り名人の異名をとる祖父は何本も掘り起こしていました。

竹の子は足の踏む感覚で探すのだとか。
世の中、見えるものごとばかりに捉われてはいけないということを竹の子から教わったような気がします。